第33回年次大会(2024年)実施報告・発表概要
 
日時: 2024年3月2日(土)12:45~18:10
場所: 千葉工業大学新習志野キャンパス
  7101教室 (役員会、研究発表第1室、それ以外の時間は会員控室)
  7102教室 (研究発表第2室)
  7105教室 (受付、書籍展示、総会、開会式、シンポジウム、研究発表第3室、閉会式)
  〒275-0023 千葉県習志野市芝園2-1-1
 
大会運営委員長: 川﨑 修一(日本赤十字看護大学)
大会運営副委員長: 関田 誠(東京電機大学)
大会運営委員: 奥井 裕(和光大学非常勤)
加賀 岳彦(日本女子体育大学)
佐藤 亮輔(北海道教育大学札幌校)
島野 恭平(埼玉県立春日部工業高等学校)
鴇﨑 敏彦(日本獣医生命科学大学)
松本 恵美子(順天堂大学)
森景 真紀(北里大学)
開催校委員: 相原 直美(千葉工業大学)
木村 博子(千葉工業大学)
橋本 修一(千葉工業大学)
浜野 志保(千葉工業大学)
三村 尚央(千葉工業大学)
山内 政樹(千葉工業大学)
開催校協力委員: 渋谷 和郎(早稲田大学非常勤、元千葉工業大学教授)
 
◆10:50~12:10 役員会(7101教室) 司会:会長 野村 忠央(文教大学)
役員の方々はご出席をお願い申し上げます。
 
◆12:00 受付開始(7105教室)
 
◆12:20~12:45 総会(7105教室)
  司会:事務局長 佐藤 亮輔(北海道教育大学札幌校)
総会では役員、一般会員を問わず、多くの会員の皆様のご出席をお願い申し上げます。
 
◆12:45~12:55 開会の辞(7105教室) 会長 野村 忠央(文教大学)
 
◆13:00~15:10 〈シンポジウム〉(7105教室)
  〈専門領域横断的シンポジウム〉「2冊のCGEL
  (※シンポジウムは130分:発表95分+質疑応答20分+休憩15分です。)
  司会・講師:川﨑 修一(日本赤十字看護大学)
 近年、英語系学会のシンポジウムや英語教師向けの参考書のタイトルに「英語学研究の成果を英語教育に活かす」ことを謳うものが少なくない。これは一見喜ばしい潮流にも思えるが、裏を返せば「教育に活かされていない、あるいは活かせない研究」の存在が含意されており、さらには研究と教育の乖離という英語学研究の現状の一端がそこから垣間見られる。実用に直接結びつかない研究の意義を否定するつもりは毛頭ないが、社会貢献を学会および学術研究の意義の一つと考えるならば、その研究成果を教育に還元することが最も明確でかつ健全な社会貢献であろう。
 さて、研究と教育の橋渡し役を買って出る決意を新たにしたところで、どのような現象に関する学問的知見を教育に応用するかという大問題がすぐに立ちはだかってくる。そこで実際に学会や書籍で取り扱われている現象を概観すると、なるほど、言語研究を生業とする言語学徒にとってはどれも大変興味深い現象ばかりである。ただその一方で、説明の理解のためには専門的知識を必要とし、言語研究を専門としない者にとっては難解でとっつきにくいと思われるだけでなく、学習者にとって身近な問題というよりもむしろ極めて「周辺的な」現象を扱っているものも少なくない。これは同様の趣旨のシンポジウムで周辺的な構文を扱った経験のある身として、自戒の念を込めた思いでもある。真の意味での研究成果の教育への還元を目指すのであれば、これらの問題の解消は喫緊の課題であろう。
 そこで本シンポジウムでは、学生・教師双方にとって極めて身近な問題であるにもかかわらず、説明に困るような言語現象をテーマに取り上げ、学問的知見を援用しながら教育における有効な記述・説明の可能性を参加者全員で検討したい。専門分野の垣根を越えた議論が可能なレヴェルの語彙を用いた、忌憚や遠慮など一切介在しない、シンポジウムの原義どおりの学術的「饗宴」にできれば理想である。
 今回のテーマは「2冊のCGEL」である。まずは下記をご一読いただきたい:
  「英語をネタにして生計を立てている人の間で ‘CGEL’といったら2つのものが思い浮かべられるであろう。A Comprehensive Grammar of the English Language(Quirk et al.(1985)とThe Cambridge Grammar of the English Language(Rodney Huddleston and Geoffrey K. Pullum(2002)である。(中略)この2つのCGELは英語をネタにして生計を立てている人(すなわち英語の教育者ならびに研究者)の間ではバイブル的な存在になっている。ちょうど、ちゃんと受験英語をやった人にとって、『英文法解説』(江川泰一郎)が受験英語のバイブル的参考書であるように」
これはHuddleston and Pullum(2002)の翻訳である『「英文法大事典」シリーズ0英文法と統語論の概観』の「刊行にあたって」からの抜粋である。2冊のCGELが英語教師全員のバイブルかどうかはさておき、少なくとも現存する世界最高峰のバイブル的英文法研究書であることに異論はあるまい。上述した通り、本シンポジウムは、学生・教師双方にとって極めて身近な問題を取り上げ、学問的知見を援用しながら教育における有効な記述・説明の可能性を参加者全員で検討することである。この2冊がバイブルであるならば、身近な問題に対して教育に有効な知見を提供しないはずがない。ご異論、反論のある方は、是非、本シンポジウムにご参加いただきご意見を賜れれば幸甚である。
 
★「2冊のCGELから探る単純現在形の用法とその説明―有限か無限か」
講師:関田 誠(東京電機大学)
 英語の現在時制には単純現在形(simple present)と呼ばれる動詞の形式がある。例をあげると、動詞のliveの単純現在形はsheが主語の場合、livesになる。英語の単純現在形は基本的に現在のことを表すが、動詞の種類が状態(例:live)か動作(例:play)かで、それぞれが表す意味が多少異なってくる。前者はI live in Tokyoのように、私が東京に現在住んでいる状態を表す。一方、後者は習慣的な動作を表し、たとえばI play footballでは私が習慣的にサッカーをするということを表す。
 問題は後者の動作動詞の単純現在形で、目の前で行われている動作を表す場合は、現在進行形(present progressive)が使われるのが普通である(例:I am playing football)。また、単純現在形はThe sun rises in the east(太陽は東から昇る)のように、いわゆる不変の真理も表す。これらのことは、多くの英語学習者にとって混乱を招く要因になっていると考えられる。
 そこで、本発表ではCGEL(Quirk et al 1985; Huddleston and Pullum 2002)を援用しながら、単純現在形は動詞の種類に関係なく基本的に状態を表し、この状態には有限と無限があることを議論する。そして、そのことを踏まえた上で、単純現在形の用法に関して統一的な説明ができないかを探る。上手く説明できれば、英語教育への還元が期待できる。
 
★「2冊のCGELのDistributivityに関する記述」
講師:川﨑 修一(日本赤十字看護大学)
 分配性(distributivity)は馴染みの薄い概念かもしれないが、具に目を凝らして英語に接すれば極めて身近にみられる言語現象である。にもかかわらず、特に分配単数(distributive singular)と分配複数(distributive plural)の問題は、先行研究の数や文法書における記述の乏しさ、また学習者の意識の低さを鑑みても、研究や教育の現場において「みてみぬふり」をされてきた現象という印象はぬぐえない。たとえば次の例では、分配単数と分配複数のどちらが選択されるか、いずれも可なのか、選択の際の制約はあるのか、いずれも可だとすると意味的な違いは認められるのかなど、まずはご自身で考えてみていただきたい:Our neighbors are a nuisance/nuisances; The students raised their hand/hands。自信をもって答えられる方も多々おられると推察するが、これは話のほんの一部であり分配単数・複数の選択に課される制約や意味的な違いについては不明な点が多い。そこで本発表では、分配性の観点から、複数主語に呼応する補語や目的語の数(number)の問題を中心に、2冊のCGELの記述を比較、検討、発展させ、教育における有効な記述の可能性を探ってみたい。
 
★「CGELが採用する品詞分類について―前置詞の扱いを中心に」
講師:津留崎 毅(明海大学名誉教授)
 言語の研究や教育における「品詞分類」の重要性を否定する人はいない(と思う)が、実のところ、英語の品詞として何を認めるべきなのであろうか? 多くの実用的な英文法書では、英語の品詞を8つに分け、その内訳として、「名詞」、「代名詞」、「形容詞」、「副詞」、「動詞」、「前置詞」、「接続詞」、および「間投詞」を認めている(この8品詞に「助動詞」と「冠詞」を加えて10品詞とする立場もある)が、この分類そのものに疑いの目を向ける人の数は、必ずしも多くない(あるいは、多くなかった)ように思う。
 The Cambridge Grammar of the English Language(略してCGEL)および、CGELをベースに編纂された英文法入門書A Student’s Introduction to English Grammarが認めている品詞(語彙カテゴリー)の数は8つであり、数の上では、伝統的な品詞分類と一致している。しかしながら、その内訳は、いくつかの重要な点で異なっている。本講演では、CGELが採用する品詞(語彙カテゴリー)分類を紹介し、伝統的な品詞分類との相違について、特に前置詞に焦点を合わせて解説しようと思う。
 
☆コメンテーター:野村 忠央(文教大学)
 
 
◆15:20~17:55 〈研究発表〉
 
発表時間は35分:発表25分+質疑応答10分です。)
 
研究発表第1
(7101教室)
 
★15:20~15:55 司会:遠藤 花子(日本赤十字看護大学)
「ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』における「普通でない人々」へのまなざし」
伊瀬知 ひとみ(九州大学大学院生)
 モダニズム文学を代表する作家の一人であるヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf, 1882-1941)の長編小説『ダロウェイ夫人』(Mrs Dalloway, 1925)は、ロンドンの自宅でパーティーを開くクラリッサ・ダロウェイの一日を、「意識の流れ」の手法で描いた作品である。先行研究では、文体論的アプローチ、第二波フェミニズム思想を導入したアプローチ、文化研究的アプローチの、主に三つの流れが存在する。一方で、本作品では社交界での立場や人間関係が物語の重要な要素になっており、上層中流階級に属するダロウェイ一家の他に、クラリッサのかつての恋人で、彼女に失恋した後に衝動的な結婚をしたピーター・ウォルシュ、ダロウェイ夫妻の一人娘の家庭教師でクラリッサを軽蔑しているミス・キルマン、詩を愛する青年だったが第一次世界大戦で戦争神経症に罹ったセプティマス・スミス、その妻でイタリア人のルクレツィアなどが登場する。彼らの言動から、ウルフがダロウェイ夫妻のようないわゆる「周囲から羨望を集める人々」だけではなく、「周縁に追いやられた人々」についても精緻な描写を試みていることが読み取れる。本発表では、ウルフが彼らにどのようなまなざしを向けていたのか考察する。
 
★16:00~16:35 司会:植月 惠一郎(日本大学特任教授)
“A Posthumanist Dehumanization Predicament in Do Androids Dream of Electric Sheep?
張 汝楠(早稲田大学大学院生)
 Do Androids Dream of Electric Sheep? is one of the most significant science fiction novels exploring posthumanist thought by depicting human-nonhuman relationships.  Philip K. Dick attributes humanness to female androids, such as Luba Luft, by portraying them with human emotions and empathy in the novel.  In doing so, the novel evokes empathy from both the protagonist Deckard and the readers toward androids.  Furthermore, it prompts readers to reflect on the coexistence of humans and nonhumans, embodying an obvious posthumanist ethos.  However, the reason why Deckard and readers empathize with androids is not due to the humanization of androids; on the contrary, it’s because of the dehumanization predicament that androids are experiencing.  In other words, the dehumanization of androids is the key term that encourages readers to initiate a posthumanist reflection on the relationship between humans and nonhumans (androids or minorities in reality).  Dick expresses a pessimistic attitude toward humanness in the novel notwithstanding, the posthumanist reflection promoted by the novel leads readers to a relatively optimistic conclusion: it suggests how majorities should treat those dehumanized individuals within the readership who consider androids as a metaphor for dehumanized minorities in reality and also addresses how humans should ideally coexist with nonhumans (if possible in the future).  This presentation aims to analyze how the dehumanization predicament in the novel elicits readers’ empathy toward androids and explores the ways in which the dehumanization of androids is connected to posthumanist thoughts.
 
★16:45~17:20 司会:染谷 昌弘(東洋大学非常勤)
「カズオ・イシグロの『クララとお日さま』に描かれるA.I.ロボットと人間の共生社会」
武富 利亜(近畿大学)
 カズオ・イシグロが2020年に出版した『クララとお日さま』(Klara and the Sun)は、A.I.ロボットと人間の共生社会を描いている。この物語の舞台設定は、近未来のアメリカである。ジョジーの母親が娘にA.I.ロボットを買い与えることから始まるこの物語は、表面的には、A.I.ロボットと少女の交流で体の弱いジョジーを精神的にも肉体的にも支えるクララ(ロボット)にみえる。しかし、読み進めていくにつれ、クララはジョジーのためというよりは、母親は自分のために購入したことに気づかされる。母親は最近、長女を病気で亡くしており、次女のジョジーも身体が虚弱であるため、娘を亡くしたときの辛辣な経験を繰り返さないよう、クララにジョジーを模倣させているのである。ジョジーは、ロボットであるが、彼女の言動はときに「心」をもっているようにも感じられる。母親の真意も理解し、従順に自らの使命を果たそうと奮闘し、太陽に「願掛け」のようなことを行うさまは、人間となんら変わりない。終盤では、クララの想いが通じたようにジョジーは、健康を回復させていく。めでたくクララは家族の一員として召し抱えられるのかと思いきや、家族はクララをスクラップ工場へ送っている。つまり廃棄処分をされるのである。そう遠くない未来に我々は、ロボットと共生することになるだろう。『クララとお日さま』にはそのときに備えるためのヒントが隠されている。A.I.ロボットと人間の共生社会は実現可能なのか否か、本発表を通じて考えてみたい。
 
★17:25~18:00 司会:本間 里美(北海道教育大学札幌校)
「ウォルター・ペイターの『ガストン・ド・ラトゥール』あるいは唯美主義者の思想形成」
十枝内 康隆(北海道教育大学旭川校)
 ウォルター・ペイター(Walter Pater, 1839-94)の『ガストン・ド・ラトゥール』(Gaston de Latour)は、宗教戦争に揺れる16世紀フランスを舞台に、名家の末裔であるガストンという若者の成長を扱った未完の歴史小説である。もっとも、ペイターの多くのテクストと同様に、そこには19世紀イギリスに生きた作家ペイターの自己投影が見られ、ペイターは創作中の世界で想像を恣にしている。主人公ガストンは宗教的な人物であると同時にペイターと同様の唯美主義者でもある。歴史小説であるがゆえに、ピエール・ド・ロンサール、ミシェル・ド・モンテーニュ、ジョルダーノ・ブルーノといった実在の作家や思想家も登場するのであるが、ガストンがペイターの自己投影を含んでいるのと同様に、ロンサールにはシャルル・ボードレールの姿が映し合わされ、また、ガストンの友人のひとりである架空の人物ジャスマン・ド・ヴィルボンにはどこかオスカー・ワイルドを窺わせるところがある。本発表においては、ガストンと彼を取巻く人物たちの思想、心理、態度を丹念に読み解きながら、ペイター的な唯美主義者の思想形成の過程を追跡してみたい。
 
 
◆研究発表第2室 (7102教室)
 
★15:20~15:55 司会:島野 恭平(埼玉県立春日部工業高等学校)
「構文化と構文変化という視点から存在文の破格構文についての考察」
森 創摩(千葉工業大学非常勤)
 存在文には様々な下位タイプがあるが、その中でも、以下の例(1)‐(2)のようなタイプの存在文を本研究の考察対象とする。
(1) There’s a man lives in China. (Quirk et al. 1985: 1407)
(2) There was a farmer had a dog. (Lambrecht 1988: 336)
(1)‐(2)のようなタイプの存在文は破格構文と呼ばれることがあり(中右(2003))、本研究は、Traugott and Trousdale(2013)とTraugott(2022)における「構文化」と「構文変化」に着目し、このタイプの破格構文は〈There is/was 定形節〉という形式へ構文化をし、〈There is/was an NP〉という形式から〈There is/was 定形節〉という形式へ構文変化を受けたと主張する。
 また本研究は、存在文の破格構文に対して、Langackerの「使用基盤モデル」(usage-based model)を援用した分析も提示する。これは、当該構文が構文(変)化現象であることの論拠であり、構文(変)化現象であることを補強する議論でもある。
 さらに、本研究は、存在文の破格構文に「ステージレベル述語」(stage-level predicates)と「個体レベル述語」(individual-level predicates)が使用できるかどうかについての議論も行い、当該構文には、ステージレベル述語は生起できるが、個体レベル述語は生起できないということを明らかにする。このことは、当該構文は構文(変)化現象であることの論拠でもあり、補強証拠でもある。
 そしてさらに、本研究は、通常の存在文(〈There is/are/was/were an NP(s)〉)には、NP(s)を聞き手にとって新情報として談話に導入する働きがあるのと同じように、〈There is/are/was/were 定形節〉という形式の存在構文においても、定形節自体が談話上の新情報を担う要素であると言える言語的証拠を提示する。これにより、当該構文は構文変化を受けたという主張の妥当性が増すことになる。
 
★16:00~16:35 司会:川﨑 修一(日本赤十字看護大学)
「英語におけるuntil Aによる調理動詞の修飾について」 金澤 俊吾(高知県立大学)
 文法規則には従っていないが、特定の使用域(ジャンル)で容認される英語表現がある。until+形容詞(以下、until A)がその一例であり、料理のレシピにおいて、調理動詞と共起することで、動作の過程が強調される(例:cook the bacon until crisp, beat the yolks of the eggs until creamyなど)。
 Aは当該動詞の目的語名詞句と叙述関係を構築し、調理動作の結果状態を表す。また、Aと叙述関係にある名詞句が、先行文脈に生起する場合、当該名詞句が省略された「動詞+until A」の事例も形成される(例:cook until crisp, beat until creamyなど)。
 本発表では、Aには、調理動作の結果もたらされる、対象物の典型的な性質を表す形容詞が生起することを明らかにする。また、until Aを伴う事例は、結果構文に類した意味的特徴を持ち、野中(2023)による、料理のレシピにおける場所目的語構文の形成、目的語の省略に関する考察と同様、対象物の状態変化に焦点が置かれた談話構造内で用いられていることを明らかにする。
 
★16:45~17:20 司会:佐藤 亮輔(北海道教育大学札幌校)
「Form Copyと英語の自由関係節」 松山 哲也(和歌山大学)
 本発表は、内的併合によって派生されると考えられていた自由関係節のコピー関係をM空所(独立に外的併合された2つの同一の要素間のコピー関係)と再分析することで、今まで説明が難しかった特徴が説明可能になることを示し、Chomsky(2021)のForm Copyの考えを補強する。
 Ott(2011)によると、what John cooked のような自由関係節は(1)のように、whatがcookの補部からCP指定部に内的併合した結果、関係節全体がDPに再ラベル化されることで派生される。
(1) [vP eat [α=DP [DP what1], [CP CFR ]] [TP John T-ed cook what2]]]
                            θ/Case                                                      θ/Case
ただこの分析は、what1とwhat2が、ateとcookからそれぞれ別個のθ役や格を受け取るため、「意味の二重性」や格フィルターに違反する問題がある。これらの問題を避けるため、自由関係詞は、関係節の外側(what1)と内側(what3)にそれぞれ外的併合されると想定する。
(2) [vP eat [DP what1 D [CP what2 CFR John T-ed cook what3]]]
what1はeatからwhat3はcookから別々にθ役と格を受け取るので、上記の問題は生じない。what3はCP指定部に移動し、FCが<what2, what3>に適用され、what3が削除される。<what1, what3>はM空所であるので、自由関係節の主要部が再構築化の効果を示さないことも正しく予測される。
(3) We will comment on whichever pictures of Hanseli hei displays prominently.
  (Citko 2002: 508)
 
 
研究発表第3
(7105教室)
 
★15:20~15:55 司会:齋藤 章吾(弘前学院大学)
「英語の空主語が許される環境について」 宮元 創(九州大学大学院生)
 英語では、(1)に示されるように、一般的に空主語が許されない。
(1) * Speaks English. (Roberts and Holmberg 2010: 4)
先行研究では、イタリア語等の空主語を許す言語と英語等の空主語を許さない言語間の違いを屈折の豊かさに還元し、豊かな一致形態素を持つ言語が空主語を許すが、持たない言語では、空主語が許されないと提案されてきた(Rizzi 1982, 1986, Chomsky 2015他)。しかしながら、英語でも空主語が許されるような環境が存在する。
(2) a. Speaker A: Why don’t you get a respectable job?
    Sperker B: (Me)get a respectable job!  What do you think I am?
  (Akmajian 1984: 4)
  b. Mother: What would you like to do?  
    Allison: Want eat my snack.(Allison 2;4) (Camacho 2013: 211)
  c. Wish you were here. (Haegeman 1996: 237)
(2a)のspeaker Bの最初の文は、Mad Magazine Sentences、(2b)は、英語を母語とする子供の発話、(2c)は、日記文の例を示し、いずれも空主語が許されることが示される。一致の豊かさに還元する分析では、英語は空主語を許さないことを予期し、(2)の例を説明することが困難である。
 本発表の目的は、英語は一般的に空主語を許さないという事実を保持しつつ、限られた環境で空主語を許すような(2)の例への説明を行うことである。より具体的には、日本語等のdiscourse pro-drop言語をラベリングの観点から説明するMiyamoto(2022, 2023, to appear)の分析が(2)の例に拡張可能であることを提案する。
 
★16:00~16:35 司会:野村 忠央(文教大学)
「日本語のwh-islandの有無と英語との比較研究」
作元 裕也(長崎大学/九州大学大学院生)
 これまで、日本語のwh句が非顕在的に移動していると先行研究では、仮定されてきた (Watanabe(2001), Saito(2017), その他)。その証拠として、wh-island effectがあげられる(Ross(1967), Chomsky(1986), Nishigauchi(1990), Watanabe(2001), その他):
(1) * Whati do you wonder howj Mary repaired ti tj? (Manzini 1992: 51)
  * 佐藤くんは鈴木くんが何を食べたかどうか覚えていますか?
    (Nishigauchi 1990: 31)
他方、Tsai(1999)は日本語のwh疑問文に対して、null operatorを仮定し、以下のような構造を仮定している。
(2) a. Japanese-type: [CP OPx [Q] [TP … [PP/DP   wh(x) …]]…]]
  b. English-type: [CP [PP/DP wh(x)-OPx [Q]]k] [TP …tk…]]
  (Tsai 1999: 61, slightly modified)
このように、日本語のwh-island effectが説明されてきたが、これには日本語にwh-island effectsがあるという前提が必要である。しかし、日本語にwh-island effectsがあるかどうかに関しては、先行研究において議論が別れている(Lasnik and Saito(1984), Shin(2005), Kitagawa(2005), その他)。更に、方言の違いによって文法性が変わることも先行研究で指摘されている(Nishigauchi(1990), Kitagawa(2005), その他)。従って、wh疑問文のメカニズムを明らかにするためには、より広範な調査及び詳細な検討が必要である。本研究では、インフォーマント調査と先行研究における分析を踏まえ、英語と比較して、日本語のwh-islandの分析をフェイズ理論(Chomsky 2000)等の観点から行う。また、他の島現象(Ross 1967)に関しても分析を行う。
 
★16:45~17:20 司会:関田 誠(東京電機大学)
「見せかけの逆行コントロールについて」 三好 暢博(旭川医科大学)
  戸澤 隆広(北見工業大学)
  菅野 悟(東京理科大学)
  戸塚 将(宮城教育大学)
 生成文法では、Chomsky(1981)以降、日英の言語差異をパラメターという観点から体系的に捉えるという試みがなされてきた。本発表では、以下の対比、すなわち、日本語には、(1a)の目的語コントロール構文に対応する(1b)の表現が存在するが、英語にはこのような対応関係は存在しないという差異をこの観点から検討する。
(1) a. ジョンはメアリーをi [ei 公園に行くよう(に)] 説得した。
  b. ジョンは ei [メアリーがi 公園に行くよう(に)] 説得した。
(2) a. John persuaded Maryi [ei to go to the party].
  b. John persuaded ei [Maryi to go to the party].(nonexistent)
まず、(1b)のeは、①項省略が許されない環境では、束縛変項として解釈されることはない、②空の代名詞(pro)が生起できない環境でも生起できる、という事実を指摘し、その上で、上述の差異が、英語では一致(Agreement)が義務的であるが、日本語では随意的であるというKuroda(1988)の理論の帰結として捉えられることを主張する。(1b)のeには複数の可能性があるが、この主張が正しい限りにおいて、(1b)に義務的コントロール関係は存在せず、Cormack and Smith(2004)等が提唱した(1b)の逆行コントロール分析は成立しない。
 
 
◆18:05~18:10 閉会の辞(7105教室)
  理事・大会運営委員 鴇﨑 敏彦(日本獣医生命科学大学)
 
 
《大会運営委員会より》
懇親会 18:15〜19:45(大学学食) 司会:大会運営副委員長 関田 誠(東京電機大学)
  大会終了後、学内にて数年ぶりの懇親会を予定しております。参加ご希望の方は出欠票から事前申込をお願いします(申込締切2月17日(土))。どうぞ多くのみなさまのご参加をお待ち申し上げております。
千葉工業大学新習志野キャンパスまでのアクセス:
  ・JR京葉線 新習志野駅南口 徒歩6分(東京駅から31分)
  ・JR総武線 津田沼駅南口下車し、京成バス「新習志野駅行」で「千葉工業大学入口(所要時間15分)」下車
  https://www.it-chiba.ac.jp/institute/access/shinnarashino/ もご参照下さい。
当日の昼食は上記最寄の各駅前よりお求め頂きご持参下さい。なお、お弁当をご希望の方は2月10日(土)までに出欠票からお申し込み下さい。
学会員以外の方々のご参加も歓迎しております。今大会は当日会費を徴収しませんので、事前申込の上、ご参加下さいますようお願い申し上げます。
その他、ご不明の点などございましたら、大会運営委員長 川﨑 修一までご連絡下さい。多数の皆様のご参加をお待ち致しております。